私、豊本明久(仮名)は、東京都多摩市のマンションに住む会社員だ。
会社は二つ隣の駅だが、趣味も兼ねて自転車で通勤している。
休みの日には、鎌倉辺りまで自転車で行くこともしょっちゅう。
近くには野山が多いくて散策には事欠かないし、オシャレなカフェもあったりして、ここでの生活は気に入っている。
ご近所さんは、その自然が多いせいで「ネズミが出る」と嘆いていたけど。
大学を出て3年。仕事にも慣れてきたところで、最近家で起こる奇妙なことに気が付いた。
買った覚えのない接着剤が食卓の机の下に落ちている。
最近食器を割って直そう と思ったこともないし、自転車の修理をしようと思ったこともない。とにかく、今の自分では使うシチュエーションがないものだった。
とはいえ、接着剤など、実家から引っ越してきたときに荷物に紛れていてもおかしくないものだったので、その時は気にも留めないでいた。とりあえず工具箱にそれを戻し、仕事へ向かった。
この時の違和感にもう少し敏感になれていたら、と今では後悔しかない。
私の仕事は、営業マンだ。とはいえ、外を走りまわったりするのではなく、電話口で商品を顧客に売り込むセールスマン。
世間的には、悪い印象の仕事かもしれない。営業中、余計な電話だとして、すぐ切られたり、暇を持て余した人に遊び半分に話に付き合わされたりのは当たり前で、ひどいときには無意味に怒鳴られもする。そんなことがあっても、私はこの仕事は嫌いではない。
なぜなら、「顔が見えないから」。人は顔が見えなければ、いくらでも非情になれる一方で、いくらでも優しくできる。
私は、後者の方の人種らしい。もう二度と会うことがない人とは、過去にどんなことがあったとしてもそれはもう存在しないことだ。
だから、怒鳴られたところで、罵られたところで、私には関係ない。そう思っていた。
その日の仕事は定時には終わらなかった。平日は規則正しい生活を心がけているため、これは大きな誤算だった。上の連中が商品の発注数をミスったせいで、平の私たちにノルマの4割増しを要求してきたのだ。
おかげでサービス残業。月曜日から くたくたに働かされた。最悪の気分で帰宅し、まともな家事をする暇なく泥のように眠った。